マニラ娘純情。Manila Photo Virgin. "好きですマニラ manila love..." White edition

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CASINO ESPANOL DE MANILA




60年前には、社交界で賑わっていたスペインクラブでありました。


1945年 アメリカ軍との苦戦に強いられていた日本軍は、フィリピン人抗日ゲリラの攻撃にもさらされていました。

フィリピン人密告者から、スペインクラブにも避難民に紛れてゲリラが居るという情報が、日本軍にもたらされます。



建物の四方の入り口に爆雷が仕掛けられ、爆破。
アメリカ軍の砲撃を避けるために非難していたフィリピン人は逃げ惑い、建物正面から出て来ました。


そこに待ち構えていたのは日本軍の機関銃です。ドイツクラブでの惨劇は2000名と言われていますから、スペインクラブでも同程度の避難民はいたのでしょうね? 虐殺された死者のほとんどは、女性と子供だったといいます。





NHK製作の 『証言記録 マニラ市街戦 (死者12万 焦土への一ヶ月)』




今後の私のマニラ散策にも、少なからず影響をあたえそうであります。











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NHK製作の

『証言記録 マニラ市街戦 (死者12万 焦土への一ヶ月)』




『フィリピン最後の攻防(極限の持久戦)』




を見ました。



【関連リンク】は、こちらから> 『さよならStage6』高画質無制限動画UPをありがとう。


戦没された多くの日本人市民・兵士ならび台湾人をはじめとした他国民族志願日本兵、フィリピン人市民・アメリカ軍兵士の皆様の、ご冥福をお祈りします。

繰り返してはいけない出来事として、動画を活用させていただきます。








1945年2月のマニラの戦火を下を知る、フィリピン人、アメリカ人、日本人38人の証言をもとに、当時の画像と現在のマニラの映像を交差させる形で描いています。

死者 日本軍16,555人、米軍1,010人,、フィリピン人100,000人
何故こんなに多数のフィリピン人を巻込む形で、戦闘が行なわれたのか?

画像には当ブログでも紹介したことのある、場所がいくつも登場します。

東南アジアでも指折りの豊かさにあふれたマニラ。『東洋の真珠』と言われていたスペイン統治時代の建物は砲弾を受け、瓦礫の山となりました。

インフラが寸断され砲弾飛び交う中、水にもことかく市民生活。

日本兵のスパイになってフィリピン人を売るフィリピン人。米軍に組織された抗日フィリピン人ゲリラ。フィリピン人同士の殺戮。

抗日?の幻影に怯え、フィリピン人男子を捕らえては後ろ手に縛り、盾がわりに窓際に立たせた日本軍。

市街に隠れ交戦を続ける日本軍を殲滅するために、米軍によるフィリピン人婦女子への犠牲を前提とした、病院施設までも対象としたマニラ市街への無差別砲撃…………。
当時のマニラ市民100万人。実にその1/10の10万人のマニラ市民が、砲弾と戦火の下で犠牲になりました。

マニラで60年前になにが有ったのか?
米日比の兵市民が涙ながらに語る、60年経た今の証言をとおして顧みます。


放送は8月5日に行なわれたBSハイビジョンの再放送などですから、既にご覧のお方もおられることでしょう。

マニラの歴史として、マニラに関心を寄せる人に一度見ていただきたいものです。

仕事が忙しくなって来ていますので、すぐにとは行きませんが、DVDに焼いて『ネモトレストラン』に置かせていただこうと想っています。

ひょっとすると、既に置いていただいた仲間も居るかも知れませんね。





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日本大使館、ネモトレストラン位置図























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